あれから一年

2011年3月11日金曜日は、鹿児島にいた。
14時46分、車を運転していた。何も感じなかった。
震度1だった。

その夕刻、鹿児島空港で、羽田空港閉鎖のため帰りの便がキャンセルと知り、少し事態を把握し始める。ようやく確保してもらったホテルでテレビをつけて、その映像から事の重大さを認識する。それまで、その週末に富山で予定していた富山TSS対東京TSSの野球大会が、東京からの移動ができないために、キャンセルになったと聞いて、「何を大げさにしてるんだ?」と思ってしまうほど、わかってなかった。

一年経った今でも、家内に「あの震災で電話もメールもしない、ひどい夫。」と冗談半分?でイジメられるが、沖縄を除くと、日本国内で震源地から最も遠い場所にいたのだ。心配していなかった。

非難を覚悟で告白すると、その揺れや恐怖を家族や社員と経験できなかったことが、良いことだったと思っていない。そして、それを共有できていないことを恥じる気持ちがあった。甚大な被害に遭い、家族や大切な方々を失った東北のみなさまにすれば「経験してないからそんなことを言うんだ」と言われるであろうが、日本人として、心に刻む何かが欲しいと思っていた。

なぜ僕は、あのタイミングで、九州という地震を感じないあの場所にいたのか。そして、いさせられたのか。僕には意味がないとは思えない。なぜなら僕はしょっちゅう九州に行っているわけではなく、その確率は、東北に行く確率と同じくらいであり、あの日に僕がたまたま東北にいてもおかしくなかった。逆に、九州で地震が起きる可能性も同じくらいあったはずだ。でも、僕は色々な偶然があるとはいえ、それを経験しないことを”結果的に選んだ”。その理由は今のところ不明だ。いつかわかる日が来るのだろうか。

震災に直接関連する出来事といえば、津波で流されてしまった設備を今までにないスピードで復旧させ、その生産を24時間体制で行い、切迫した需要に対応した。弊社の製品で、ヨウ素とセシウムを除去する浄水器を放射能の影響に苦しむ福島のある工場に寄付させてもらった。そして、東北で職を探している方をテレビで知り、採用させていただいた。大事なことだと思う。でも、十分だと思っていないし、もっとすることがあると思う。

この震災でわかったこと。それは、我々が今できることを全力でしなければならないということ。すなわち自分自身を生きるということ。

今、日本の製造業は大ピンチだ。しかし、我々のような精密機械や部品を作る”能力”は世界から求められてるはずだ。大げさではなく、TSSは、日本の製造業を支えていく責任があると思っている。我々のような中小の製造業が潰れたら、本当に日本の製造業は終わってしまう。

今、課せられたミッションは、TSSと社員が大きく成長し、苦しい日本の製造業を活気付けること。それこそが、僕自身を生きることであり、我々のできる本当の震災復興であり、日本と世界のためにできる、唯一で全てのことだと思う。

一年前の震災により被害を受けられた皆様に、あらためてお見舞いを申し上げ、失われた多くの命に、深い哀悼の意を表す。

釜石の警察署。公用車の白バイがこんな状態で放置されているのが、今の状況を表している。写真でも少し見えるが、この建物の裏側の広大な土地には、何百台ものいつ処分されるかわからないスクラップの車たちが整然と並んでいた。

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