プロスキーヤー皆川賢太郎

僕が最初に会ったのは、彼が24歳の頃だっただろうか。

当時は、アルペンスキーワールドカップの第1シードで、世界の強豪を相手に何度も入賞を経験し、長野の五輪にも出場。選手として最高潮の時で、押しも押されぬ日本スキー界のスーパースターだった。

以前、スキーに関係する会社に勤めているときに、一言二言会話をした記憶がある。こちらもスキーヤーの端くれだから、彼はほぼ神様で、緊張していたこともあるのだが、彼自身もトップアスリートが持っているであろう”俺様”オーラ全開だった(と、こちらが感じてしまっていた)ので、会話が長く続く訳もなかった。

皆川賢太郎35歳。すごくイイ男です。

再会の理由は、私が所属する若手経営者の会が、半年に一度、研修会を開いており、そこに私のスキー関連の友人を通して、彼にゲストスピーカーとして講演してもらうというお願いしたからだ。

事前の打ち合わせで会ってみると、彼から”俺様”は微塵も感じなかった。そのときから10年以上が経ち、大怪我とそこからの復活、そして五輪4位から、再度転落して復活という、まさに七転び八起きを地で行く経験が、彼の人生を大きく変えたのだろう。

目が印象的だった。話していると、なぜか、最初に会った時、目を見てもらえなかった記憶が蘇った。しかし今の彼は、雪面を捉えて離さない彼のスキーのエッジの如く、相手の目を見据える。捉えられたこちらは、彼の話に引き込まれて行く。

怪我により、選手としてピークを迎えた20代後半の大事な時間を失っただけではなく、当時のスポンサー全8社から契約を解除され、所属先も失い、まさに絶望の淵に追いやられ、そこから這い上がって得たトリノ五輪の4位。その壮絶な一連のプロセスは、人間として何にも代え難い体験だったと思う。

もし自分が、同じ境遇に置かれ、たとえ「お前は見事に復活してオリンピックで4位になる」と、結果を予め教えられていたとしても、果たしてそこまで努力を続けられただろうか。彼は未知の自分を心から信じることができ、絶対に諦めなかった。ここが常人とは圧倒的に違うところであり、結果を残すことができた所以だと断言できる。

素晴らしい人生を生きるため、そして素晴らしい経営者になるための沢山のヒントが、研修会での彼の話にちりばめられていた。そして何よりも、それを生き抜いてきた人間のみが持つであろう素晴らしいオーラが出ていた。

日本のものづくりがヤバくなっている今、我々TSSも窮地に立たされている。とても厳しい経営環境の中で、途方に暮れることもある。しかし、彼が通過してきたそれと比較すれば、取るに足ることではないと思えてきたし、信じれば絶対にできると教えられた。

研修会の当日は35歳の誕生日。もう選手としては、肉体的ピークを過ぎているだろう。しかし、トリノの映像を見ながら「今の方がよっぽど上手いよ」と自らが言う技術と、豊富な経験に支えられた精神をバックに、ソチ五輪での勝利を真剣に目指している。今回の研修会に参加した経営者達と何ができるのか、相談をしているところだ。厳しい中でも、何かのサポートをしていきたい。

プロスキーヤー皆川賢太郎は、諦めないで続けることの意味を誰よりも理解している。「勝つまでやれば負けない」のだ。

皆川賢太郎オフィシャルブログ http://ameblo.jp/kentaro1

反省すべき事、考えるべき事

我々は、お客様が希望する仕様に合わせて、設備を作る。1台1台違うマシン。年々短くなる納期設定、中国価格が基準となって下落する価格、その一方で品質や性能はこれまで以上を求められる。

我々のマシンによって作られるコネクタという(自社工場でも生産している)製品は、最終的に家電製品や自動車、コンピュータなどに載せられて、消費者に届けられる。モノの流れでは、僕らの仕事は上流に位置するが、お金の流れは、それを遡るので、下流だ。消費者に手渡される商品の値段が、製造原価を決め、それに含まれる部品の値段を決め、その部品の値段から、設備投資となるマシンの値段も、コネクタの組立費用も決る。デフレと円高真っ只中の今、限りなく抑えられた売価の中で、上流から順番に利益を確保され、設備に充てられる費用は、自ずと決まってしまう。さらに、中国をはじめとする新興国でもマシンビジネスが活発化しており、持ち前のコピー能力を発揮して、我々の市場を奪うだけならまだしも、市場価格を下げていく。

今、中国に納入された我々のマシンが、問題を起こしている。新しいマシンをお客様の工場に設置する作業は、通常、ふたりで1週間、長くて2週間で引き上げて来れる作業だ。しかし今回は、4月の初めに5人が現地入りし、追加派遣や人員交代などを経ても、未だに設置完了に至っていない。51年以上続く株式会社TSSの歴史において、特に悪い意味で記録的プロジェクトになっている。

まず、我々の企業努力が足りていない。今回の設備にはいくつも改善できる点がある。TSSとして、とても多くの学びがあり、これから先に活かさなければならない教訓がそこかしこに見て取れた。他の仕事にも共通する。品質、価格、納期、すべてにおいて我々にはできることがまだまだある。だから今後も、短納期、低予算、高品質を求められる仕事を続けるということは、会社全体が、ひとつもふたつもレベルアッップしなければ、市場で生き残るのは不可能である。

日本という国にとって、製造業は最も大切な産業のひとつで、我々のようなものづくり企業は、地域、国、そして世界のために、もっともっと貢献しなければならない。そして、ものづくりに携わる人材は、日本にとって貴重な資源で、育成を怠っては行けないと思うし、その人材達にとって、製造業が魅力的な職種でなければならない。ものづくり企業の経営者である僕は、とても大きな責務を担っている。

前述の通り、経営者としての僕は、まだ、できる限りのことをしていない。今の経済環境に合った、経営ができていないことは、僕の責任である。

我々が今後、このものづくりの環境下で、魅力的な企業として継続し、製品のコストパフォーマンスを維持することは、簡単ではない。デフレに円高が拍車をかけて、下がり続ける市場価格に伴い、製造原価も同様に下げなければならないが、給料は最低でも現状を維持しなければならない。もちろん、コスト削減の努力は続けなければならないが、お金の流れの最下流に位置する設備産業が、これからの日本において、有能な人材にとって魅力的でやりがいのある仕事であり続け、その技術力を維持、発展させるためには、我々のような一企業でできる範囲を超えた問題となっている。

もっと良いものをもっと安く。家電量販店、ファストファッション、ファストフードが我々の生活に浸透する。そして、消費者として当たり前の心理と行動が、巡り巡って結果的に自分たちの仕事に大きな影響を与えている。

ものづくり企業として力が至らないことへの反省と、日本のものづくり産業の現実を知った上で、これからの未来を考えていかなければならない。今回のプロジェクトは、様々な意味で、51年目のTSSにとって大きなターニングポイントとなる。

第一工場B棟と夕陽