京急蒲田の踏切がなくなって思うこと

リニューアルされる前の弊社サイトのコラムに、京急蒲田駅周辺の踏切のことを書いた。そのときの内容は、だいたいこんな感じだったと思う。

これは京急の傲慢だ。踏切とは、通常、生活のための道路に、電車が通過するときだけ、申し訳なさそうに遮断機を下ろして、安全を確保するものだ。しかし、京急蒲田の場合、「普段は電車が通る線路なので、道路としては機能しませんが、電車が通らないときだけ、道路として使って良いですよ。」という京急の意志が表れている。朝夕のラッシュ時には、20分以上閉じていることもざらで、踏切の両側に合計150人くらいと、車数十台が待たされていた。時給を単純に1000円と考えても、一回の遮断で、5-10万円の経済的ロスが生じ、一日では軽く数百万円を超えるムダが、生じていたと考えられる。

もちろん、京急利用者は、本数が増えれば便利になって、その恩恵を受ける。でもそれは、京急の収益につながるもので、そのために、何の罪もない待たされる側は、家を15分早く出たり、帰りが20分遅くなったりして、それが当たり前のことと我慢させられていた。あの踏切を通勤や通学に使っていた人たちは、一日あたり約30分の時間を無償で京急に捧げていたことになる。

そんな踏切が、10月21日になくなった。

高架化され、かつて一日中鳴り続けた警報機に黒いカバーがかけられている

待たされることが大嫌いな僕は、どうしても避けられない場合以外は、あの踏切を通らないように心がけていた。でも、今はもう、踏切が開いてるうちに渡ってやろうと走ることも、どうせ閉まっているからと、手前のコンビニで飲み物を買うこともなくなった。

きっと、この道を通っていた人たちは、一日の30分を取り戻したことで、少しだけ寝坊ができるようになり、帰りが早くなったお父さんたちは、家族とふれあう時間が増えたであろう。すばらしい出来事だ。怒ってはいたが、京急も東京都も、がんばったと思う。

ところが、あれだけ毛嫌いしていた踏切が、いざなくなると、不思議なもので、ちょっと寂しい。便利になることは、素晴らしいのだが、それによって失われたものがあるのかもしれない。

大型ショッピングセンターやコンビニの台頭の影で消え行く、街の商店街。
パソコンのキーボードと向き合う時間が増えて、書き方を忘れてしまった漢字。
携帯電話の普及で失われてしまった、人々のリアルなコミュニケーション。
高速道路や新幹線の開通で人足が遠のく、峠のドライブイン。
例を挙げればきりがない、便利さと引き換えに失っていくものの数々。

便利さとは、制限を取り除くこと。
しかし、考えてみれば、物事は制限があるから面白い。

スポーツのルールは、一種の制限だ。ルールがなければスポーツではないし、面白くもない。

服にもルールがある。スーツは一見同じに見えるが、デザインにも、着方にも、それを着るシチュエーションにも細かいルールがある。そのルールの中で、お洒落な人と、そうでない人には、天と地以上の差が生じる。

ビジネスにも、社会にもルールがあり、その中で、いかに生き抜くかのかが、面白いのではないか。

考えてみれば、人生は制限と制約とルールでがんじがらめだ。だからこそ、面白いのではないか。それがすべて無くなれば、秩序が崩壊し、僕らの生命の前提が失われてしまうだろう。だから、僕らはその制限の中で人生を謳歌し、ルールのもとで生きることを楽しまなくてはならない。

京急蒲田の踏切が無くなって、周囲に暮らし、勤めている我々の制限は大幅に緩和された。そして、それによってもたらされる便利なことは、たくさん思いつく。しかし、その影で、きっと失われてしまった何かがあるのだろうと感じている。

人生のルールすら楽しむことが出来ていない僕に、それが何かはまだわからない。

1日で約5万人が使ったプラットホームは、何だか寂しげ

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